レポート

「アジア・アーツマネジメント会議inヤンゴン」報告

中西美穂(アートマネジメント研究) 

第11回アジア・アーツマネジメント会議は2016年12月6日から8日まで、ミャンマーのヤンゴンで開催されました。初日6日は個別研修、7日は会議、8日はアートスペースツアーです[i]。このレポートでは、以下に時系列で出来事を並べながら、最後に個人的な感想を記したいと思います。

1.個別研修で出会った、まちの「本」事情
初訪問のミャンマーの都市ヤンゴンで何が印象深かったのか?と聞かれたら、私は「本」と答えます。東南アジアのいくつかの都市を旅してきましたが、なかなかいい本屋に出会えないというのが、本好きの私の悩みでした。あったとしても、ショッピングモールの中、あるいはアートスペースなどの特殊な場所です。しかしヤンゴンでは通り沿いや路上に魅力的な本屋がいくつもありました。

ソングブック
Sule Payaから、東に向かう道の路上で、約9センチx21.5センチの縦長サイズのカラーコピー用紙にモノクロ印刷の冊子が露店に並べられていました。何の冊子か尋ねたところ「ソングブック」との答え。表紙を除いて15頁にミャンマーの文字で歌詞のようなものが書かれ、その歌詞の上にギターコードのようなものが記されています。メロディーを示す五線譜はありません。いくつかのタイトルに英語がありますが、ほとんどがビルマ文字。露店の店主はとても機嫌がよく、一冊200チャットだ、どうだ、と私にすすめてきました。私は、どれが良いのか選びようがないので、店主に選んでもらいました。すると色違いの3冊をすすめてきて500チャットだと値引いてきました。店主をはじめ露店を囲む通りすがりの人々は笑顔で私たちのやりとりを見ています。滞在時間は15分程度でしたが、他に購入する人は見かけませんでした。


ソングブックを売る男性。

本屋
そのままSule Payaから、東に向かう道を気まぐれに南に入ったところで、通りに面した本屋を数軒見つけました。そのうちのわりと間口が広い一軒に入ってみました。入り口で靴を脱ぎます。すでに先客が熱心に本を物色していました。三人の男性と一人の女性で、全員ミャンマー人に見えました。本は、ほぼすべて横積み(!)です。床でも本棚でも横積み(!)なのです。たしかに横積だと背表紙の横文字が読みやすく、また紙質の良くない本でも横積みならばたわむことがないでしょう。多くの本は、古本に見えました。あるいは、コピーしたものに厚手の紙で表紙を付け製本したような本も少なくありません。ある一冊には1870年代の英語の発行物のコピーを製本したものがありました。真偽は不明ですが、そのような時代の書物ならばコピーであっても歴史的に重要だと思うのですが、無造作に置かれていました。内部は6畳ぐらいの部屋と20畳ぐらいの二部屋。奥に台所のような場所があり、また二階もありました、が、奥も二階も入ることはできませんでした。

近くの、別の本屋では、古本を何冊かまとめてひもで縛った状態でした。古紙回収に出すようにも見えました。しかし古紙回収業者を街で見かけなかったので、これは商品なのだろうと思いました。

路上の本屋
本屋と同じ通りをさらに南下しつつ西隣の通りに行くと、路上で本屋が営業していました。英語のペーパーバックの古本やビルマ語のコピー製本の本が平積みで置かれています。数名の客が本を見ていました。全員が男性です。店先にお風呂の椅子のような小さな腰掛けを置いているところもあり、炎天下ですが、じっくり椅子に座って本を読むこともできそうです。しかし筆者が立ち寄った10分間程度の間に椅子に座る人はいませんでした。

路上の製本サービス
さらに歩くと、路上の本屋の近くに、若い女性が一人で製本をしている小さな露店を見つけました。コピーをしたような紙を束ね、長辺の一方をホッチキス留めし、厚紙ではさみ、厚紙ごと千枚通しで穴を開け、タコ糸のようなもので閉じています。とても手際がよいのです。若い学生風の男性が声をかけましたが、女性は手をとめずにちらっと学生を見ますが作業を続けていました。学生はしばらくその横に立っていました。このやりとりから、教科書を製本しているのではないかと推測しましたが、どうでしょうか。

なお、最初に入った間口の広い本屋の中にも、壁に糸が束ねてかけられていました。あれも製本に使うためのものだったのかもしれません。

ヤンゴンまちかど「本」事情
散歩の中で見つけただけなのですが、ミャンマーのヤンゴンにおいて、「本」の文化が大衆に根付いているように思えました。また、その本は、日本のように新刊が中心ではなく、コピーや独自製本のものも少なくないようでした。滞在したホテル近くに数軒、印刷を生業としている店舗もあり、輪転機のようなものが店の奥にありました。さらに言うならば、会議において、詩人と翻訳家は、自ら出版した本を持参し、日本の参加者に配布しました。発表者らは、どちらかというと装飾の少ない服装であり、連絡はスマートフォンを活用し、手荷物はほとんど持ち歩かないように思えました。そんな彼らが、何冊もの自費出版の本を持参する様子に、やはり「本」の文化の価値の高さがミャンマーにはある[ii]のではないかと思いました。なお、ミャンマーには近年まで貸本文化がとても盛んだったそうです。

2.アジア・アーツマネジメント会議
メインイベントである会議は12月7日の午前9時頃より午後4時50分頃まで、MYANM/ARTと外に看板がでているミャンマーアートリソースセンターで行われました。また同会場では午後7時から特別講演も開催されました。


ミャンマーアートリソースセンター(別名MYANM/ART)の外観

会議の登壇者は日本から7名、ミャンマーから7名、タイから一組です[iii]。順番に各自の活動をプレゼンし、それに質疑をするという方法ですすめられました。

名前をあげると、日本からは、中川眞(音楽学者)、Vladimir Kreck(神戸大学教員)、上田假奈代(詩人、特定非営利法人cocoroom代表)、大谷燠(コンテンポラリーダンスプロデューサー、特定非営利法人dancebox代表)、中谷由美子(障害者アートコーディネーター、社団法人たんぽぽの家 職員)、小島剛(音楽家、NPOタチョナ代表)、新見永治(フリースペースぱるる共同代表)の7名、いずれも社会包摂の視点による芸術活動をフィールドとする実践者、実践的研究者です。ミャンマーからはNathalie Johnston(キュレーター、MYANM/ART主宰)、ZONCY(アーティスト)、Shin Daewe(映像作家)、Thila Min(劇団Thukhuma Khayeethe アートディレクター)、San San Oo(アートセラピスト)、Nyein Way(詩人)、Han Zaw(ライター、翻訳家)の7名、そしてタイからVorapoj OsathpiratanaとParitta-anong Tawanwiwattanagul(両名ともコミュニティアートプロジェクトDjung Space主宰)の 1組です。会議の進行役は日本側から藤野一夫(神戸大学教員)、岩澤孝子(北海道教育大学教員)、中川眞、ミャンマー側から清恵子(ライター、キュレーター、メディアアクティビスト)とNathalie Johnstonが分担しました。夜の特別公演では平田オリザ(劇作家)が講師となりました。また、発表はしませんでしたが、雨森信(キュレーター、Breaker Project代表)、山田実(釜ヶ崎支援機構理事長)、蔵原藍子(東山アーティスツ・プレイスメント・サービス 広報)、南田明美(神戸大学大学院生)、中西美穂(大阪経済大学非常勤講師)が日本から参加し、現地では、在ミャンマー日本国大使館の広報文化班職員や、現地日本語新聞ヤンゴン・プレスの記者らの参加がありました。ミャンマー側からも、著名なアーティストAnnMinをはじめとするアート関係者ら、おおむね20名程度が入れ替わり立ち代わり参加しました。つまり発表者などとあわせて常時30名を超える参加者があったといえます。

1)中川→Johnston→ZONCY→Kreck
会議では、はじめに、藤野の開会宣言につづいて、中川がアジア・アートマネジメント会議の意義と今までの活動について紹介しました。
次に、会場であるギャラリーのギャラリストJohnstonが「ART+SPACE in Yangon」と題し、主にヤンゴン郊外のアーティストラン活動を紹介しました。市内はコマーシャルギャラリー中心ですが、周辺部には違った活動もあるとのこと。ただし、見せることを目的とした活動ではないようで、私たちのような数日しか滞在しない者が見に行くことは難しいようでした。郊外や地方にも目を向けて欲しいとの発言は印象に残りました。
2番目は、アーティストのZON CYによる発表です。「An activistic performance work」の題で女性への性暴力をテーマにした自作のパフォーマンスアートを映像で紹介しました。女性の身体や性暴力について発言することがタブーとされているミャンマーにおいて、未婚の立場で性暴力を作品のテーマとすることは勇気いることと思われました。
次のKreckは「Arts and Economy : A conflict from an evolutionary perspective」と題し自身の研究紹介をしました。アートマネジメントに関わる理論的な発表をしたのは彼だけです。文化の障壁をいかに打ち破るのか、つまり文化的な革命はいかにおこるのかとの考察は、ミャンマーのアーティストにとって刺激があったようです。「その“革命”を、どう選択するのか?」といった質問がありました。時間の関係で深い議論にはなりませんでしたが、こういった理論の枠組みを参加者で脱構築するような作業が会議でおこなえる可能性を感じました。

2)Djung Space→上田
コーヒーブレイクをはさんだのち、タイのDiung spaceの二人組が「Community and Arts」と題して彼/彼女らのクリエイティブスペースと、コミュニティアートの活動を紹介しました。フロアからは、活動のネットワークや、課題などへの質問とともに、ミャンマーのエディターの男性から、活動に対する国の助成金や、その法整備について質問がありました。文化政策が整わないミャンマーの文化関係者にとって、どのように国に提案していくべきなのか、とても興味があるとのことでした。
次は詩人の上田が、自ら代表を勤めるココルームや釜ヶ崎芸術大学について「Poverty and Arts-inclusive arts and management」と題して紹介しました。ミャンマーの参加者から、とても面白い質問がありました。ココルーム発祥の地として、大型商業施設跡であるフェスティバルゲートの画像を紹介したのですが、それに対して、「そこは上田さんのご自宅ですか?」と質問があったのです。もちろん答えは「違います」なのですが、価値観の違い、そして日本の活動を画像や映像で紹介することの難しさを実感しました。なお、通訳やコーディネーターのフォローにより、日本には周縁化されている貧困層が存在することが知らされました。そして上田の活動がそれに対するものだと知った後は、「そのような地域でスペース持つ活動では、何を得たか」「日本の社会保障はどのようなものか」といった質問がありました。上田は「“表現すること”(それが出来る状況)は、その場に居る人が大切にされているということである。だから、表現できる場は、社会が上手くいっているということである。つまり立場が違う人も交流ができる」と答えました。質疑だったので深入りしなかったのですが、私は「立場が違う人の交流」をミャンマーのアートマネージャーたちはどう思っているのか、深く聞いてみたいなあ、と思いました。


上田假奈代の発表風景

3)Shin Daewe→大谷→Thila Min
ランチをはさみ、女性映像作家Shin Daeweが「Myanmar Women Film makers」と題し、彼女がすすめる、一般の女性達が自ら撮影者になるドキュメンタリーフィルムプロジェクトを紹介しました。家庭や家族の営みが女性の視点で描かれている作品の一部が上映されました。もっと長く、そして他の作品も見たいと私は思いました。現地コーディネーターの清によると、ミャンマーに女性映像作家は少なくないとのこと。まとまった作品上映会があればよいなあ思いました。
大谷は「Inter local expression;Contemporary arts and Local community」と題し、日本のコンテンポラリーダンスシーンを牽引するとともに地域に根ざした側面も持つダンスボックスの活動についてディレクターの立場から紹介しました。ダンスボックスは自前の劇場を持っています。ミャンマーで演劇活動をする青年は「その劇場はいつでも、見にいけるのか?」と質問しました。大谷さんは「年に20本の公演をしている」との答え。自主的な劇場運営も、本会議の重要なテーマなのだと改めて実感しました。
その劇場について質問をした青年Thila Minが、次に「Community shared activity」と題し、自らの演劇活動を紹介しました。彼は2006年に活動を初め、その後コミュニティセンターや、小学校で公演しているとのこと。野外公演の写真は楽しそう。ミャンマーの大学では演劇が学べるかどうかとの質問がありました。ダンスはあるとのこと答えでしたが、その場では、それが伝統的なものなのか現代的なものなのかは明らかになりませんでした。ダンス、そして、演劇や美術も、伝統的なものと現代的なものの折り合いが、どのように教育の場でなされているのか気になりました。

   
Thilaminの発表風景        Thilaminの発表パワーポイントの一部

4)SanSanOo→中谷→Nyein Way
午後のコーヒーブレイクののち、はじめにアートセラピストのSanSanOoによる「Art Therapy」の発表がありました。ヤンゴン郊外にクリニックを持ち、トラウマを抱える台風被害者の心理療法にビジュアルアートを活用しているとのことでした。ミャンマーにおける多様なアートの在り方に気づかされました。
次の中谷は、知的障害者らの芸術表現を、商品化して、マーケットを開いていく実践について「ABLE ART-Possibility of art and human」と題し紹介しました。「どのようなマネジメントをしているか?」との質問がありました。「商品になるまでマネジメントする」と答えていました。また、前日に、中谷はヤンゴン郊外の障害者の作業所に見学に行き、日本との差異を感じたとのことでした。
詩人のNyein Wayは、簡単な自己紹介と緑色の縫い糸を使った短いパフォーマンス、詩の朗読を行いました。発表タイトルは「Poetry borders in the 21st Century」。文化背景が違う日本の聴講者に対して、パワーポイントの画像よりも、パフォーマンスと詩の朗読という生の表現は、彼自身が表現者としてどのような人物であるかを知らせるのに有効であると感じました。なお、ミャンマーでは詩人がとても尊敬されているそうです。彼は他の発表者と異なり、民族服ではなかったことも印象深いです。Kreckが出版について質問しました。NyeinWayは、以前は難しかったが、今はライセンスを取って自分で出版していると答えました。また「検閲はあるのか?」との質問もありました。しかし詩人は、自分は政府のための物書きではないので知らない、インディペンデントの詩人だと答えていました。詩人の答えが例え話なのかどうなのかわかりませんが「政府」という権力の存在と、詩という表現の在り方について、鈍感ではいられないミャンマーのシーンを垣間みたように思えました。

5)小島→Han Zaw→新見
最後のセッションは、小島の「Arts and education for children」から始まりました。こどもを対象にしたアートワークショップの実践を紹介しました。小島の活動は、子どもたちの個性や発想を大切にし、評価しています。ミャンマーでは、子どもの芸術表現をどのように捉えているのでしょうか。会場に教育者が来ておらず、具体的な質疑に発展しませんでしたが、プレゼン映像から何かを受け取ろうと、ミャンマーの人々は真剣に見入っていました。
次のHan Zawは翻訳、編集も手がけるライターです。「PEN Myanmar,ART PLUG」とのタイトルで、主宰するアート系のウェブサイトや出版物を紹介しました。以前は検閲もあり、大変な時代もあったとのこと。現在は、文化に関わる法律を、表現のためによりよく変えて行きたいとの考えを持っているそうです。ライターが単なる取材者に留まらず、シーンをつくることに意識的であることに、ミャンマーのアートシーンの可能性を感じました。
最後は新見です。「Leadership,alternative space and art」と題し対話型の発表をしました。プログラムの最後であり参加者の疲れもありましたが、コミュニティで活動していると言っていたミャンマーの発表者たちは、着席のままでしたが声を出し、新見の問いかけに答えていました。これが最後でしたが、会議の場を共有するために最初にあってもよい発表だったなあと思いました。


NyeinWayが出版した詩集

6)会議のまとめと特別講演
以上が会議です。長時間であり発表者も多く多様な内容でしたが、一つ一つの発表から、次に続くテーマの発見があったように思います。多忙な日本のアートマネージャーにとって、この発見を、次の活かす場をつくることは簡単ではないでしょう。ミャンマーの人々もそうなのでしょうか。彼らは日本のアートマネージャーのように多忙なのでしょうか。そんなことが気になりました。
この後、同じ会場での平田の特別講演には、さらに参加者が増え、聴講者の熱気を感じました。ミャンマーの聴講者より「サラエボでベケットが上演されたことについてどう思うか?」との質問がありました。これは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグのエッセイ「サラエボでゴドーを待ちながら」[iv]を前提にした質問です。戦時下のサラエボに、安全な他国の知識人であるソンタグが出向き、現地で多様な人々と現代劇を上演する経験を綴ったものです。平田は、自身の劇作品「ソウル市民」のソウルでの上演経験を述べつつ、芸術が、現実の不条理をどう乗り越えるのか、乗り越えなければ成らないと、結びました。私は、そのやりとりを聞きつつ、この質問は、平田のみならず、今回のアートマネジメント会議に日本からやって来た私たち自身に向けられたのではないかと思いました。私たちは不条理を乗り越えられるのでしょうか。そもそも不条理に気づいているのでしょうか。

なお、このような催しについて、9名以上の集会を実施する場合には政府機関への届け出が必要であったという過去の規制を理由とした、政府機関による予告なしの視察もありました。結果として強い指導や摘発を受けることはありませんでしたが、このことから芸術の専門家が集うこの会議は、規模は大きくありませんでしたが、社会的インパクトのある出来事として受け止められたことが推測できました。

3.ヤンゴンのアートスペース訪問ツアー
会議の翌日8日に午前9時から午後5時まで、Johnstonを案内人にヤンゴン市内の9か所のアートスペースをバスで訪問しました。午前はアップタウン、午後はダウンタウンと中心街です。さらに帰国当日の午前に国立博物館を見学しました。美術の分野に偏っていますが、短い滞在の間に数多くのアートスペースを訪問することができたように思います。

1)アップタウンのコマーシャルギャラリー
最初に訪れたのは「AHLA THIT ART GALLERY」です。元政府高官宅を改造したアートギャラリーで展示室は3室ありました。訪問時「NEXUS」展と、画家AUNG AUNG TALKとNANDAR MAUNGによるドローイング二人展を開催。同時に次のファッション展示の準備をしていました。
次に「State School of Fine Art」の外観を眺めました。ここは軍事独裁政権時代の美術大学で、現在はアーティストや教員が独自にアトリエとして利用しているとのこと。今後アートセンター等に活用する計画もあるそうです。現在は内部見学不可でした。
住宅街にある「KZL ART」を訪問しました。画家OHMMAR THANが主宰するコマーシャルギャラリー兼アトリエです。彼は東京の展覧会に何度も参加したことが若手実力派です。ギャラリーでは彼自身の作品と彼が選んだ作品を販売していました。
同じく住宅街にある「NEW TREASURE ART GALLERY」へ。ここはミャンマーで最も有名な画家Than Than Mawが主宰するコマーシャルギャラリー兼アトリエです。倉庫のようなスペースと、映画セットのような彼のアトリエに圧倒されました。

2)ダウンタウンのオルタナティブスペース
街中にもどり古い商業ビルの一角にあるヤンゴンの老舗オルタナティブスペースとして有名な「NEW ZERO ART SPACE」を訪問しました。世界的に評価されているアーティストAye Koが主宰しています。内部は二層構造になっており、下部が展示室、上部がライブラリーとレジデンススペースとなっていました。滞在制作できるようです。訪問時はHayman OoのキュレーションによるMayco Naingの写真作品展「IDENTITY OF FEAR」開催中。無償配布の英語テキスト付のカタログがありました。
「THINK GALLERY」も街中の商業ビルの一角、半地下スペースにありました。Swedish Institude(スウェーデン文化交流協会)の助成による「Walks of Life」というタイトルのミャンマー各地のLGBTたちに取材した展覧会を開催中。数名のミャンマー人の鑑賞者が熱心に鑑賞していました。
「ngar se」は、家族所有の古い家を改造したフリースペースです。靴を脱いであがるのでどなたかの自宅にお邪魔しているように思えました。内部は二層構造になっていて、情報ボード、音楽演奏用具一式、カフェがありました。詩の朗読などのイベントが行われており「YANGON LITERARY MAGAZINR」を発行しはじめたとのことです。

   
THINK GALLRY                ngar se

3)中心街の実力派ギャラリー
街の中心部にある「LOKANAT GALLERIES」は、植民地時代の歴史的建造物の二階にある老舗ギャラリーです。1971年創立。訪問時は46周年記念展の準備中でした。
ツアーの最後に訪問したのは大きなコマーシャルギャラリー「RIVER GALLERY」です。ミャンマーの現代美術を扱っています。2006年設立。2002年からヤンゴンに住むニュージーランド女性Gill Pattisonが主宰しています。
ツアー解散後に有志で「Pansodan Gallery」を訪問しました。数ブロックを徒歩移動し、通りに面した小さなビルの2階にあるギャラリーをみつけました。ミャンマーの現代絵画を主に扱うコマーシャルギャラリーです。2008年設立とのこと。無造作に重ねて立てかけられている沢山のキャンバスに、多くの作家が自分の作品を世に出したいと思っているのだろうと感じ、少し胸が熱くなりました。

4)国立博物館とアートマップ
アートスペース紹介の最後に、ミュージアムについて少し紹介します。ナショナルミュージアムつまり国立博物館は中心部から少し離れた場所にある大きな鉄筋コンクリートの建物でした。館内の冷房は強く寒さを感じました。全館写真禁止とありましたが、訪問者は国宝と記されている黄金の椅子の前で記念撮影をしていました。近代画を時代順に並べた階もあり、じっくり見て、写真を取りたかったです。
なおヤンゴンでは観光客向けの英語表記のイラストマップが数種類発行され無償で配布されています。これには観光名所も記されています。ビルマ文字を上手くあしらったかわいいマップです。ヤンゴンのアートスペースめぐりが、今後の観光プログラムのひとつになるのかも、と思いました。


ガイドマップ

4. アートマネジメントを“スペース“という切り口でとらえること
会議の話に戻ります。ミャンマーの発表者の多くが自身の活動そのものに焦点をあてていたのに対し、日本側の発表者は、空間が活動を表象するかのようにパワーポイントに自らの活動スペースの写真をつかっていました。そのことについて私は、若干の違和感を持ちました。「芸術空間の運営」がアートマネジメントの主題のように思われてしまわないかと思ったからです。
話が繰り返しになりますが、日本の日常空間へのイメージがミャンマーの人々にないことは、上田への質問から理解することができました。上田は、自身の活動の発祥の地であるとして大阪のフェスティバルゲートという建物の画像を紹介しました。フェスティバルゲートは大阪市浪速区に1997年から2007年まで存在した地上8階建ての都市型立体遊園地と呼ばれた商業施設です。バブル経済がはじけた後の日本においては、有効活用が難しい負の遺産のように扱われていました。そのフェスティバルゲートの画像に対する、ミャンマー側からの「あの建物は、上田さんの自宅ですか」との質問は、日本側の者にとっては予想外の質問です。上田の活動は、バブル期の負の遺産である建物に象徴されるような、資本主義社会の労働力搾取により周縁化された高齢者や貧困層の人々と向き合う仕事であり、時には自身の生活に困難さえ伴っているといえます。その上田の活動がミャンマーの人々には、大きな家に暮らす裕福な詩人の慈善事業と思われたようでした。私は、そのような誤解に興味を持ち、重要な場面だと感じました。資本主義経済による労働力搾取によって周縁化され貧困化する人々との芸術活動や、さらにはお城のような大きな商業施設を負の遺産としてその活動に苦慮する日本の現状が、ミャンマー人にはイメージすることが簡単ではないことが明らかになったからです。そして、そのことは「芸術空間の運営」を、具体的なスペース画像では共有しがたかったことでもあり、結果的にアートマネジメントを「芸術空間の運営」に閉じ込めることにはなりませんでした。
もう一点は、平田の特別講演からの気づきがあります。平田によると演劇には劇場が必要だとのことです。その劇場を運営していくには、空間と組織が必要です。そして平田によると演劇とは、日本においては、美術や音楽などの政府が富国強兵に役立つと考えて推進した芸術分野とは成り立ちが異なり、当初から反体制であり社会批判をすることができる表現分野であり、つまりは民主主義を形成していくのに必要である。そして現在、民主化がはじまり、近代化、現代化、産業化、情報化が同時進行で起こるミャンマーにおいて、演劇は必要なものであると述べました。つまり演劇は劇場を必要とするものであり、だから「芸術空間の運営」は外せない議論なのだと言うことができます。平田は、ミャンマーの人々に自分自身の表現をして欲しいとも述べてもいました。そのためには空間が必要なのです。したがってヤンゴンにおいて劇場の必要性を論じるためにも「芸術空間の運営」を主題とすることは重要であったといえるでしょう。

5.まとめにかえて
アーツマネジメントとは、1970年代前後に欧米において登場した考えです。芸術文化の活動を社会に位置づけ、政府や行政による法整備や、財団や企業からの資金協力などをえて、よりひろく深く芸術活動するための知恵です。アジア・アーツマネジメント会議in ヤンゴンでは、各々に現場を持つアートマネージャーが登壇しました。意見がぶつかりあうといった議論はありませんでしたが、発表と質疑を通して、私見ですが「都市と地方」「女性の表現とコミュニティ」「理論をどう共有するのか」「文化政策と法整備」「経済格差と芸術空間」「劇場運営」「芸術の高等教育」といったテーマが浮かび上がったように思えます。これらのテーマに精査は必要でしょう。そしてその精査の作業は今後の会議開催の種子になっていくのではないかと思います。
もう一つ私見なのですが、ヤンゴンには「本」、つまり文学や印刷物を起点とした芸術事業の可能性があると感じました。ヤンゴンのまちかど「本」事情や、会議での詩人のパフォーマンスや翻訳事業紹介、特別講演での現代思想の教養が背景にあると思われる質問などから、大衆文化においても、また芸術の専門家においても、「本」は身近に感じているように見受けられた。従って「本」に関わるものならば、多くの人々と共有しうる芸術事業につながるように思います。
また、ミャンマーに限らず、アジア・アーツマネジメント会議の数回の経験を通して、以下の三点が、アジアのアーツマネジメントの特徴になるのではないかと感じています。一点目は、交通機関や移動手段の未整備と、それによる芸術へのアクセス不便です。気軽に芸術のある場所に出かけることが容易ではないと思われます。そうであれば、広範囲の観客を対象にするよりも、地域限定の催しをした方が積極的な参加を期待できるでしょう。第二に、アーティストがアートマネージャーを兼任していることが多く、シーンでの役割が未分化[v]であることです。これは兼任が良い悪いではなく、兼任していることも少なくないことを前提にすればよいし、またそのようなシーンにおける役割の未分化が強みとなる展開も考えられます。第三にシーンにおいてアーティストが個別に英語やインターネットを通して、グローバルなシーンにアクセスしていることです。これはアジアに限らず世界的なことでもあるでしょう。
最後に、日本において「アジア」を意識しながら、アーツマネジメントを実践することは、つまりポストコロニアル社会での芸術活動を、どう考えるかということにつながる、ということについて言及しておきたいと思います。近代アジアにおける日本の芸術交流の起点の一つは、帝国主義日本の占領下で行われた文化政策です。そこで日本人は植民者として、現地の芸術文化を指導するという立場で、時にシーンを分断し、表現を抑圧しました。またその行為の理由に、先に植民者であった欧米諸国によっておしつけられた芸術文化の価値観を、「アジア」的な価値観に導く必要があるからだとしました。現代のアジアにおける日本の芸術交流には、占領時のような分断や抑圧のリスクが全くないと言えるのでしょうか。何故ならば、例えばミャンマーは日本より経済力が弱く、また文化施設や芸術教育のインフラも整っていません。ともすれば、経済力優位を背景にした「上から目線」で発言してしまうかこともあるかもしれません。ただし、このアジア・アーツマネジメント会議においては、現地の活動を一方的に情報収集するのではなく、こちらの活動を課題も含めて現場視線で紹介しようと試みています。上手く機能しているかどうか別として双方向の意見交換の試みといえます。そのような会議においては、ミャンマーの活動や人材、動向への発見や分析に加えて、日本側のアートマネージャーは何を「気づき」そして学んだのか、あるいは何に「気づかず」学ばなかったのかについてフィードバックすることが重要ではないかと思います。そのことで、日本で主体的に取り組んでいたと思っていた芸術活動が実は環境によって、取り組まざるをえなかったといった気づきや、欧米一辺倒ではない自分たちのアートマネジメント方法論を立ち上げる機会につながるといえるのではないでしょうか。そしてそのことは、輸入概念であったアーツマネジメントを、自分たちの「知」として、使いこなし変化させていくための重要な足がかりになるのではないかと思います。会議は今回で11回目とのこと。また、今後も続けて行くとのこと。会議経験の重なりから生まれるアジア・アーツマネジメントの「知」がとても楽しみです。


[i] なお事前学習会 「ミャンマー現代美術と社会の交差点―ガンゴーヴィレッジ・アート・グループ(1979-)の活動から」[講師:五十嵐理奈(福岡アジア美術館学芸員)を2016年11月11日(金)に、帰国後に「ヤンゴン報告会」を2017年1月21日(土)に、どちらもココルームで開催した。

[ii] ミャンマーの「本」事情をさらに知る参考テキスト:①高橋ゆり「出版事情—検閲全廃とジャーネ」田村克己、松田正彦[編著]『ミャンマーを知るための60章』明石書店、2013年:「政府は1964年以来言論統制のためメディアに対する事前検閲制度を実施してきたが、民政移管後の3ヶ月たった2011年6月からその適用を緩和、翌12年8月には制度を全廃した」[p.167]「5年ぐらい前までは庶民の情報源といえば貸本屋が主流だった。読書は安価な娯楽であり、一時はヤンゴンだけで1000軒の貸本屋があったといわれている。」[p.170]②南田みどり「ビルマ文学の700年—作家たちは書き続ける」前掲書:「言論統制や用紙不足のために文学の「暗黒時代」と言われた日本占領期(1942−45)、日本軍の宣撫策の一環として再建された作家協会は機関誌『作家』を発行し、ビルマ語長編小説を対象とした文学賞も設置した。プロパガンダと思しき小説が出る一方で、検閲の目をくぐって啓蒙諸説やユーモア小説や、抗日を暗示する戯曲などが書かれた」[p.186]

[iii] 本文において「日本側」「ミャンマー側」「日本人」「ミャンマー人」「タイ人」という言葉を用いるが、それは国籍や民族を固定的にとらえるものではない。生計をたてる場や、母語に基づき便宜上用いるものである。多様な民族が国々を行き交うアジアにおいて、人々の所属をどのように表すのかは今後の課題としたい。

[iv] Susan Sontag, WHERE THE STRESS FALLS, Jonathan Cape,UK,2001、(邦訳:スーザン・ソンダク『サラエボでゴドーを待ちながら』富山太佳夫・訳、みすず書房、2012年)によると、アメリカの批評家ソンタグは1993年8月、戦時下のサラエボにてサミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」を演出し上演した。

[v] 中川眞は著作『アートの力』(2013年)において「アジア社会の構造は細かく機能が分化しておらず、多重的である場合が多い。それは進化の遅れではなく、特質だ。アジア型アーツマネジメントはその特質の上に成立する。あるいはそれを成熟させる方向に動く」[p.169]と述べている。